ケムリ

36 : (無題)  ケムリ '05/01/13 19:11:47
そこに全てがある

酩酊の庭に キックの後に
オーバードーズの境目に 代謝と摂取のマッチポンプ
未開の言葉で語るように 時の鐘が音を消す場所に
赤茶色の小便に 蛇を噛むアダムのように

おれはベンチに座って誰かを待つ
枯葉は雪に変わり おれは埋もれて空を見る
黒い糸が垂れている 引いたら砕け散った
誰かおれに煙草をくれ 出来れば強いやつを

バクダットの鶏の腿肉に 吊革に垂れ下がる疲れた背広に
聖者の掘り当てた井戸に 孤児院の台所に
葉桜の公園に カンボジア置屋
極点の遷ろう日差しに 無限リピートのラジカセに

誰かが通り過ぎていく 緑の葉が芽吹いて
おれは眺める 歩き行く人々
木々は色づき アートマンをおれは流れる
留まり流れる ガンジスを流れる死産児のように

ラブホテルのメモノートに ライブハウスの便所に
大脳皮質の裏側に 終わらない射精に
ステップに立つゲルに 三万人の自殺者に
イスラムの祈りに ペンタゴンのデスクの上に

誰かおれに言葉を もっと強い言葉を
生まれた赤子の泣き声のような言葉を 熟成前のウィスキーのような言葉を
原初の光のような言葉を 落ちる飛行機の祈りのような言葉を
おれは流れる ゆらゆら 遠くなる

言葉遊びの器用猿に コンドームを買う高校生に
年寄り犬のような笑い声に 雪の中の羊の群れに
ジミ・ヘンドリックスの旋律に 俺の四弦ギターに
輸血パックの中に 千切れた舌のピアスに

「牛は第四胃が消化の要所なんだよ」
「君は速読が出来るか?」
「Fのコードが抑えられない」
「穴の開いてないジーンズくらい持ってないの?」

全てがある 俺の全てが世界の全てにある
嘔吐と寒気と薔薇色の空気が相互依存する部屋に
部屋の隅で胎児が笑っている おれを笑っている
へその緒を切った俺が間違っていた 胃液が匂いを無くして行く

316番地の街娼に マンホールの上の反吐に
膿んだ俺の薬指の爪に ハルシオンロヒプノールのカクテルに
ビフィーターの衛兵に ロンドン橋落ちたと歌う子どもに
リタリンをくれと叫ぶ俺の友に そこに全てがある

終わり方を忘れた歌に 有名すぎるコード進行に
おれの血 言葉と諦観と代謝と摂取 おれの血
全てがそこにある 膨張していく
流れていく 全てがそこにある 死産児の歌う愛の歌

lettersへ

す、と み、と れ、はletterたちだ。すみれはlettersだ。言葉は誰かに分かってもらうために言うことだ。たぶん僕たちのコミュニケーションはぜんぶ何かを誰かにわかってもらうためにやることだ。

言葉は符号で、しかも恣意的な符号で、どんな風にも組み合わせることができる。だから誤解を産む。コミュニケーションは誤解でできあがっているとソシュールは言った。僕たちは分かってもらいたいそのままのことを、いつまでも相手に伝えることはできない。僕たちはいつでも個性的すぎるのだ。

始め詩と言葉は同じだった。言葉は、あまりそんなことにもはや頓着はしないが、詩は、そういった根源的な無理解のようなものが動機になる。誰もわかってくれないから、書くのだ。それは誰もわかってくれないから、まるで手振りのように、その身から現われ出た、原始人の言葉のように。

この作品の「僕」はすみれでなくともいい、letterひとつひとつ、そしてその全てで「咲いていたいとおもった」「あや子」の意図はわからないが、宛てられたそのもののひとつひとつで、「僕」は咲いていたいと思ったのだ。

この作品は寿ぎだ。たくさんの技術を駆使して悲しいストーリーを描いているが、執拗に強調される光や朝のイメージ。咲くことは天に還ることだ。花が天に宛てられたメッセージなら、人の言葉はどうだろうか。それは世界に託されるように僕には思える。「僕」も世界に託した。言葉は完全に相手には理解されない。されないが本当に心に思うことは、世界へ向けて表現するほかはない。それは託すということだ。と思う。それは通用の文法では意味のわからないことかもしれない。しかしそうでしか言いようのなかったことならば。言えないことを強いて言おうとすることが詩ならば。この作品は光溢れる詩だと思う。

1月作品キュレーションリスト


letters
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わかるということはなんだろう。わからないということはなんだろう。そしてわからないものをどうすれば愛することができるだろう。






薔薇
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言葉は、架空の薔薇をあなたの目の前に咲かせることができるのだ。


詩国お遍路
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もしあなたに詩心があれば今いる場所が詩の国になるだろう。



愛してる。
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言葉の上で綱渡りをするすがら、虹をみる。それを愛と呼ぶことにしよう。




ああ
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神様と僕はああという言葉でしかイコールにならない。


水の誘惑
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美しさと一体になる。そのことは汚れた人間の底深い欲望かもしれない。



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プラモデル

僕たちを組み立てつづけて最後にのこるパーツは何だろう。


感傷・冬
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口笛を吹いて、また生きよう。




12月作品キュレーションリスト

ある朝ぼくは
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なんだか先月は、朝の詩が多かったきがする。朝、ぼくらは目覚めて、世界に飛び出す。年末は夜明けみたいな感じなんだろうか。この作品はファミリーの朝。(なんとなく共同アパートとかの共同体としての家族の)なんのへんてつもない、いつもの朝。夜、ぼくらは夢を見て、空を鳥として架空の町を飛び、朝、ぼくらは世界に人としてもどる。それは、おはようということ、約15円のコーヒーや、おみそ汁やご飯のこと、仕事にいかなければならないこと、さまざまな欲望を意識すること、そして今日という日を始めること。まるでそれは昨晩の、あるいは現実の悪夢を、癒やそうとするかのような儀式。愛とぬくもりのことほぎ。


幸福な一日の終わり
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幸福の詩は少ない気がする。アンナカレニーナの始まりに「幸せな家族は似たりよったりだけど、不幸な家族はさまざまである」みたいな書き出しがある。たぶんそれは真理で、不幸なら様々な状況を描いてみせることができる。だけど幸福はそうはいかない。すぐに凡百になってしまう。霜田明さんはいつもそういうなんでもないようなことを詩にするのが得意な書き手だなって勝手に思ってる。詩的な心をもって生きてらっしゃるんだろうなあ。



奪われる
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>大切な話がある
>きみが隣に腰かけた時の
>膝のかたちが好きだ

ぜんぜん大切な話じゃない!座ったときの膝のかたちて!すごく個人的。でもすごく詩的。というか詩ってのはそういうところから生まれるのかもしれない。他の誰でもない自分が大切に思うこと。それはなかなか相手には分かってもらえないかもしれないことだけど、詩ってのはそういう伝えられないことを強いて伝えてみようとすること。かもしれない。



黄色くて丸いパン
http://breview.main.jp/keijiban/?id=1107

僕も祝儀敷さんの言ってることはなんとなくわかる。そういうひともいていいと思う。そして僕はこの作品がいかに優れているかみたいなことを説得できないだろうな。たとえばこれがふつーのひとに起こったことなら、ツイッターにも書かないレベルのことで、五分後には忘れ去られてしまうようなことだけど、ボルカさんはその感動を忘れなかった(本当にあったことかはわからないけど)そしてそれを切り取った。それだけのものだから、記述されてるストーリーそのものがこの作品のクオリティだと思う。僕は素敵な話だと思った。素敵なライティングだなって。





http://breview.main.jp/keijiban/?id=1136

神様と僕をイコールにさせようとする詩。僕僕僕の呪術的同語反復(今このターム作った)が巧く決まっていると思った。文法をリピートしてるからだと思う。



遠く、朝は
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夢から覚めるとき、僕らは夢の文法を、ぐねぐねして、ぐねぐねして、なんとか現実の文法にもどしていく、その時の感覚。抽象的で美しい詩。



意識
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これはパートナーが寝てるところの詩だろうか。たとえば愛が水性なら。こんな風に静かにあふれていくのかもしれない。



literal
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リテラルなものなんかは全然だめなんだ。そんなんじゃ全然伝わらない。俺の気持ちは!みたいなラブい詩。手紙でも伝わらないと思うけど、なんだかスッキリした完成度の高い感じ。

11月作品キュレーションリスト


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恋愛ポエム。ド直球。愛の鞭があるなら〜などのキラーフレーズにやられた。アートにおいて正当的なやりかたでは、本当にダサくなるか、本当によくなるかのどっちかだと思う。そしてたぶんひとつでもダサいフレーズがあれば、全体がダサくなっちゃう。アートは本来的に創造性が必要だから、古くからのスタンダードな詩は難しい。ほとんどがダサい。だからみんな自分のスタイル、武器を磨くんだと思う。翻って、このマリアは、恋愛ポエムの稀有な成功例だ。恋愛の詩はきっと詩の歴史の最初期からある。あらゆる時代の人間があらゆる言語で挑戦してきたテーマだ。それはネット時代にも変わらない。ここに書かれている言葉に過剰な装飾や、大上段からの振り下ろしといった力んだ作為もない。あるのは愛についての言葉。ただそれだけだけど、それだけでいいし、それでいいんだよな、と思った。ポエムってそういうもんだと思う。俺は自信をもってこの作を大賞推挙としてキュレートします。






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決まったフレーズのリピート。待合室での視線の動きの描写。無駄のない文章。ドープな作品。





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言葉というひととひとをつなげるものを失って投げだされたひとに、全く意外なひとが助けにあらわれる。生きるというドラマ。




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何気ない詩句の連なり。とても散文的に書かれた生活にある美しさや悲しさ。生の苦しさと家族的なイメージのあたたかさ。さまざまなものの混交であるところの生活の詩。







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自由律みたい。でも形式が70に限定されてるのでまたちがったリズムが出ている。定型句みたいな情感がありつつも、現代的な軽さがある。






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視線を逆転させるための描写が上手く決まっている。まるでだまし絵の動物のなかにもうすこし小さな動物をみつけるときのような、視点の展観や展開。





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どこか光に溢れたライティング。馬という力強いイメージと話しかけてる対象であるあなたの対比。そしてあなたはその馬になるという言祝ぎ。





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短い。けどいいかんじ。無駄に多いよりも無駄が少ないほうがいい。