lettersへ

す、と み、と れ、はletterたちだ。すみれはlettersだ。言葉は誰かに分かってもらうために言うことだ。たぶん僕たちのコミュニケーションはぜんぶ何かを誰かにわかってもらうためにやることだ。

言葉は符号で、しかも恣意的な符号で、どんな風にも組み合わせることができる。だから誤解を産む。コミュニケーションは誤解でできあがっているとソシュールは言った。僕たちは分かってもらいたいそのままのことを、いつまでも相手に伝えることはできない。僕たちはいつでも個性的すぎるのだ。

始め詩と言葉は同じだった。言葉は、あまりそんなことにもはや頓着はしないが、詩は、そういった根源的な無理解のようなものが動機になる。誰もわかってくれないから、書くのだ。それは誰もわかってくれないから、まるで手振りのように、その身から現われ出た、原始人の言葉のように。

この作品の「僕」はすみれでなくともいい、letterひとつひとつ、そしてその全てで「咲いていたいとおもった」「あや子」の意図はわからないが、宛てられたそのもののひとつひとつで、「僕」は咲いていたいと思ったのだ。

この作品は寿ぎだ。たくさんの技術を駆使して悲しいストーリーを描いているが、執拗に強調される光や朝のイメージ。咲くことは天に還ることだ。花が天に宛てられたメッセージなら、人の言葉はどうだろうか。それは世界に託されるように僕には思える。「僕」も世界に託した。言葉は完全に相手には理解されない。されないが本当に心に思うことは、世界へ向けて表現するほかはない。それは託すということだ。と思う。それは通用の文法では意味のわからないことかもしれない。しかしそうでしか言いようのなかったことならば。言えないことを強いて言おうとすることが詩ならば。この作品は光溢れる詩だと思う。